Masuk「早く着て、体を拭いて。あとできれいなパジャマに着替えるんだ。冷えるぞ」そう言いながら、瑛介も自分のバスローブを羽織った。一通り支度を終えて振り返ると、弥生はまだその場に立ったまま、唇を尖らせていた。その様子に、思わず苦笑した。「なに?まだ浸からせなかったことに怒ってるのか?」弥生は答えず、ただ恨めしそうな目で彼を見た。その視線に、瑛介は無奈地彼女の鼻をつまんだ。「はいはい。ただのお風呂だろ?そんな顔するほどのことか。明日また入ればいいじゃないか」「今日とは違うでしょ」今日は特に疲れていたから、湯に浸かって癒やしたかったのだ。明日になれば、同じ気分とは限らない。そもそも、彼女は毎日湯船に浸かるタイプでもない。「長風呂は体に良くない」そう言い切ると、瑛介はこれ以上説得するのをやめ、その場で動かない弥生を、さっと横抱きにした。浴室からそのままクローゼットの前まで連れていき、床に下ろした。扉を開けて並んだ服を見渡しながら尋ねた。「今夜はどれにする?」そう言いながら手を動かしているが、返事がなかった。不思議に思って振り返ると、弥生は相変わらず、浴室にいたときと同じ恨みがましい目でこちらを見ていた。思わずため息が出た。「もう外に出たんだよ。まだ怒ってるのか?」弥生は黙ったまま。この様子では、どうやら簡単には機嫌が直りそうにない。瑛介はそれ以上問いただすのを諦め、自分の好みでパジャマを一式選び、彼女に差し出した。「ほら、着替えて」バスローブは濡れている。長く着ていれば冷えてしまう。だが弥生は、なおも動こうとしない。どうやら本気で拗ねているらしい。「着ないのか?」眉を上げ、わざとらしく言った。「じゃあ、僕が着せてやろうか?」その一言に、弥生は呆れたように顔を上げた。ほんとにずるい。いつもこれで脅すんだから。これ以上は張り合えないと悟り、弥生は悔しそうにパジャマをひったくるように受け取り、さっさと着替えた。彼女がようやく動いたのを見て、瑛介も自分のパジャマに着替えた。着替え終わると、弥生はすぐにベッドへ潜り込んだ。記憶はなくても、この部屋には不思議と居心地の良さを感じる。冨美子に「あなたの部屋よ」と言われたからだろうか、強い帰属感があった。
彼女がその問いに答えるより早く、弥生の腕はまた引かれ、体ごと瑛介の胸元へ引き寄せられた。背中が、彼の温かい体にぴたりと重なった。「ちょっ......」緊張して身をよじろうとするが、瑛介は力強く抱き締め、腕は鎖のように彼女の体を囲んだ。そして、耳の後ろに、熱い息が触れた。「逃げるな」薄い唇が耳元に触れ、ほとんど息だけの声になった。「ちゃんと抱いて、一緒に静かに浸かるだけだ。でも、また逃げるなら......その先は保証しない」まるで脅しのような言い方だった。逃げなければ何もしない。だが逃げたら、何が起きても文句は言えないという意味に聞こえる。反論したかったが、彼が言ったことは必ずやる性格だと分かっているだけに、弥生は結局、彼の胸に身を預けるしかなかった。「......じゃあ、約束して。何もしないって」「うん」「約束する」声は、さっきよりもさらに小さかった。そんな声は正直まったく信用できないと弥生はそう思っていたが、意外にもその後の瑛介は本当に、ただ彼女を抱いたまま静かに湯に浸かっているだけだった。手も変に動かさず、余計なことは一切しない。最初はこわばっていた弥生も、次第に力が抜けていく。ここは父の家だ。もしここで本当に何か起きたら、それはさすがに気まずすぎる。そう考えていたが、瑛介はきちんと約束を守ってくれた。やがて弥生は完全に安心し、全身を彼にもたせかけた。目を閉じ、湯に浸かる心地よさを素直に味わった。熱い湯が一日の疲れを洗い流し、背もたれ代わりに瑛介がいる今、ずっと楽だと感じた。弥生はこっそり唇を噛んで微笑んだ。瑛介があんなふうに熱くなりすぎなければ、一緒にいるのは案外、自然で落ち着くのかもしれない。二人は浴室で、二十分近く湯に浸かっていた。そこで瑛介が言った。「そろそろ出よう」冬の夜、誰だってぬくぬくした場所から出たくはない。弥生も同じで、その提案がひどく残酷に思え、動きたくないまま即座に拒否した。「やだ。もう少し浸かりたい」長く湯に浸かっていたせいか、その声は無意識に甘くなった。そんな言い方をされて、瑛介が断れるはずもなく、声を低くして言った。「......分かった。あと五分だ。五分経ったら、必ず出るぞ」「うん」このとき
弥生は、断る間もなく、瑛介が素早くシャツのボタンをいくつか外すのを呆然と見ていた。その瞬間になってようやく、彼の「一緒に入る」という言葉が冗談ではなく、本気だと悟った。慌てて言った。「いいから!私は一人で入るから、タブレットだけ持ってきてくれれば......」だが瑛介は、まるで彼女の言葉が聞こえていないかのように、にこやかに返した。「退屈なんだろ?僕が一緒にいれば、タブレットなんていらないじゃないか」いや、むしろタブレットのほうが欲しい。それに、瑛介と一緒に入浴したいとは思えなかった。そう考えた瞬間、弥生は思わず口にしてしまった。「どうせ、別の目的があるんでしょ?」その言葉に、瑛介の手の動きがわずかに止まり、次の瞬間、口元がゆっくりと吊り上がった。視線が一気に彼女を捕らえた。「......バレたか?」そう言うと、彼の視線はゆっくりと下へ落ちた。弥生は反射的に、また湯の中へ沈もうとした。だが完全に沈む前に、腕をがしっと掴まれた。「夫婦なのに、そんなふうに隠れて意味あるか?」「こんなふうに見られるのは嫌。放して」「放さないぞ」瑛介は彼女の腕の柔らかい部分をしっかり掴んだ。「一緒に入るって言うなら、放すけど」口ではまるで相談しているようなのに、彼の行動はまったく躊躇がない。片手で弥生の腕を掴んだまま、もう一方の手でシャツをあっという間に脱ぎ捨てた。そして、いかにも無邪気な顔で言った。「どうしよう。ここまで脱いじゃったら、入らせてくれないと寒いんだけど」「ちょっと!」上半身裸の彼と、その図々しい言い分に、弥生は完全に言葉を失った。必死に絞り出せたのは、それだけだった。「だめ。入っちゃだめ。まだ体を洗ってないでしょ」「へえ」瑛介は眉を上げた。「つまり、洗えば入っていいってこと?じゃあ五分待って」そう言って、彼はようやく弥生の腕を放した。ほどなくして、瑛介は立ち上がり、シャワーをひねった。浴室に再び水音が響いた。身を隠すようにしている弥生とは対照的に、瑛介はあまりにも自然で、堂々としていた。濡れた水滴が、整った頭の形に沿って流れ、はっきりした顎のラインを伝い、引き締まった胸から、なだらかな腹部へ......弥生は慌てて顔を背けた。
「タブレット?」ドアの外に立っている瑛介は、彼女が欲しがったものを知って、少し意外そうな声を出した。てっきり、着替えを忘れたのかと思っていたのに、まさかタブレットだとは。聞き間違えたのかと思ったのか、しばらく沈黙したあと、近づいてきてもう一度聞き直した。「今、何が欲しいって言った?」もともとタブレットを持ってきてほしいと頼むだけでも気恥ずかしかったのに、改めて聞かれてしまい、弥生は観念して言った。「映画が見たいの」外で一瞬、空気が止まったのが分かった。少ししてから、再び彼の声がした。「......風呂入りながら、映画見るのか?」弥生は照れながらも答えた。「今、湯船に浸かってるの。いいから早く持ってきて」「湯船に?」そう言った途端、また一瞬、外が静かになった。次の瞬間、浴室のドアノブが回る音がした。その音に、弥生はびくっとして、反射的に体を湯船の中へ沈めた。見られたくない一心だった。案の定、ドアが開き、瑛介がそのまま中へ入ってきた。「ちょっと、何してるの!?」夫婦とはいえ、入浴中にこうして見られるのは慣れていない。瑛介は、湯船に浸かっている彼女の姿を目にした。弥生は警戒して体を思いきり縮め、湯の中に隠れ、顔だけを水面に出していた。肩すら見えていない。湯を張りすぎた浴槽には浮力があり、その体勢を保つのも一苦労だった。弥生は浴槽の縁に手を掛けていたが、手が濡れていて力が入りにくく、ときどき水が頬にかかった。このままでは口にお湯が入ってしまうかと思った瞬間、瑛介はため息混じりに数歩近づき、何も言わずに彼女を水から引き上げた。......!水中にいた弥生は、拒む間もなく、そのまま抱き上げられた。彼に見られたくなくて沈んでいたのに、結局、全部見られた上に、触れられてしまった。「何するのよ!」弥生は少し怒って声を上げ、慌てて胸元を押さえた。その反応に、瑛介は呆れたように言った。「今さら何を隠すんだ」「それに、あんなふうに縮こまってたら、風呂の湯を飲んでしまうぞ」弥生はむっとした。「自分のお風呂なんだから、飲んだっていいの。いいから出てって、タブレット持ってきて」瑛介は視線を逸らすこともなく、湯気でほんのり赤くなった彼女の頬を見つめたまま言
冨美子は、弥生が照れている様子に気づき、思わずからかった。「相変わらず、すぐ顔が赤くなるのね」弥生は笑うだけで、何も言えなかった。すると瑛介が彼女の肩を抱き寄せ、あっさりと言った。「この子、照れ屋なんです」弥生は甘えるように、軽く彼を押した。ほどなくして、冨美子は二人を、弥生が以前使っていた部屋へ案内した。「長時間のフライトで疲れているでしょう。今夜は早めに休んでね。私はもう失礼するわ」そう言うと、冨美子はすぐに部屋を出ていった。弥生が振り返ると、瑛介はすでに部屋のドアを押し開けていた。弥生はここに長くは住んでいなかったため、部屋のしつらえはとても簡素だった。個人的な持ち物はほとんどなく、花瓶や置物などは、冨美子と父が用意したものばかりだ。クローゼットには彼女の服が掛かっていたが、どれも新品で、パジャマも新しいものだった。数は多くない。弥生はクローゼットを開けると、それらを端に寄せ、二人のスーツケースから、普段着慣れている服を取り出して掛け直し始めた。「僕がやるよ」彼女が二着ほど掛けたところで、瑛介は意図を察し、近づいてきた。「僕がやる」「大丈夫」弥生は、服を掛けるくらいで疲れるとは思っていなかったので、断った。だが次の瞬間、瑛介は彼女の手からハンガーを取ると、きっぱり言った。「僕がやるから。先にお風呂に入って」弥生は一瞬立ち止まり、彼の手にあるハンガーを見た。「......ちゃんとできるの?」そう言った途端、額を軽く指でつつかれた。「こんなの、できないわけないだろ。ほら、早く行って。さっき肩が痛いって言ってたよな?」言われてから、弥生はようやく肩の痛みを思い出し、うなずいた。「分かった。じゃあお願いね。私は先にお風呂入ってくる」パジャマを一式選び、浴室へ向かった。入る前に一度振り返り、瑛介が本気で片づけているのを確認してから、安心して浴室に入った。機内での睡眠のせいで溜まっていた肩のだるさは、温かいシャワーでかなり和らいだ。体を洗い終えると、あまりの心地よさに湯船に浸かりたくなった。バスタオルを体に巻き、浴槽にお湯を溜め始めた。あっという間に、湯船はたっぷりの熱いお湯で満たされた。棚を開けて、バスボムを一つ取り出し、湯の中に落とし
家に足を踏み入れた瞬間、弥生はここが海外だという感覚をまったく抱かなかった。流れている音楽も、家中にいる人の顔ぶれも、まるで国内に戻ってきたかのような気分にさせる。「弥生、お久しぶり」目の前の女性に、弥生は特別な記憶はなかったが、事前に写真を見ていたため誰なのかは分かった。軽く抱き合い、丁寧に挨拶をした。「はじめまして」冨美子は、弥生が記憶を失っていることを知っていた。だから今、自分のことを覚えていないのも当然だ。それでも、その口から聞こえてきた、あまりにも馴染み深い呼び方と丁寧な挨拶に、胸の奥が少しだけちくりとした。以前、弥生が「冨美子さん」と呼ぶときは、もっと親しげで、表情も甘く、まるで本当の娘のようだった。冨美子には、これまでずっと一人息子しかいない。息子は優しいが、やはり母と息子では違う。性別が違えば、話せることも、分かち合えることも限られてくる。息子は稼いだお金を渡してくれるし、節目には贈り物も欠かさない。でも、彼が母親の隣に寝転び、心の奥の話をすることはない。男の子の気遣いは、どうしても女性ほど細やかではないのだ。だからこそ、冨美子はずっと、心のどこかで娘を欲していた。とはいえ、再婚して子どもを持つつもりはなかった。新しい家庭が、息子に影響を与えることを恐れていたからだ。弥生の父と一緒になることを選んだのも、互いに「子どもは一人でいい」という考えが一致していたからだった。それでも弥生と出会い、彼女を心から可愛いと思い、自分の子のように接したいと思う気持ちは本物だった。ただ、心の奥では、そんな資格は自分にはないとも思っていた。育てたわけでもないのに、母親を名乗るなんて厚かましすぎる、と。だからこそ、弥生が「冨美子さん」と呼ぶことに、違和感はなかった。「来てくれて本当に嬉しい」冨美子は親しげに弥生の手に触れ、次に隣にいる瑛介へと目を向け、笑顔で声をかけた。「瑛介くんね?」瑛介は礼儀正しく軽く会釈し、弥生と同じように彼女を「冨美子さん」と呼んだ。その後、皆で腰を下ろして少し話をし、やがて食事の時間となった。食卓は終始にぎやかで、家族の笑顔に満ちていた。弥生はその温かな空気を見渡しながら、胸が満たされていくのを感じた。このまま、ずっとこんな